2007年8月16日 産経抄より
九段坂を上ると蝉時雨が靖国の杜から降ってきた。神社の右奥にある遊就館前までたどると、インド人判事の顕彰碑に出た。東京裁判でただ一人、「全員無罪」を主張したパール判事を称える石碑だ。
パール判事は親日家である前に厳格な法律家だった。「戦争の勝敗は腕力の強弱であり、正義とは関係ない」と裁判の不当性を突いた。勝者の裁きを断行する米英蘭露にはいやな存在だったに違いない。戦争の残虐性を批判し、平和に対する罪など事後につくった法律で裁くべきではないと批判した。
靖国神社の向かいにあるそのインド大使館では、午前8時半に国旗が高々と掲げられた。15日は終戦記念日だが、インドにとっては昭和22年のこの日が独立記念日になる。インドの人々にとり、独立の英雄は国民会議派議長のチャンドラ・ボースである。
近く訪印する安倍首相はパールの長男、ボースの子孫と現地で会談するという。中韓は首相の靖国参拝に文句をいってきたが、同じアジアでもインドはいわない。この訪印を機に、日本は高速貨物鉄道に円借款を供与することにした。対中国よりもよっぽど感謝されるだろう。
手元に戦前から日印をつなぐセピア色の写真がある。昭和18年11月に開催された大東亜会議の模様が撮影されている。東条首相の右側人目がボースの晴れ姿だ。会議の開催に奔走したのが、東京裁判でA級戦犯として禁固刑を受けた重光葵外相だった。
この時点から戦争の目的は「アジア解放戦争」の大義名分に変わる。重光没後50年の今年、遺族が日米文化の研究者を対象に「重光葵賞」を創設するという。受賞者の一人が、パール、ボース、重光という3者の活躍を描いてきた作家の深田祐介氏だ。
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